LOGIN夜の
夜十時過ぎ。 一ノ瀬祐真は懐中電灯を手に、裏山の入り口に立っていた。 昼間とはまったく別の場所のようだ。風が木々の間を通り抜けるたびに、ざわ……と低く囁くような音がする。 不意に、背後から足音が近づいた。 「祐真さん!」 振り向くと、息を切らした美奈が駆け寄ってきていた。 「どうして来たんだ」 「……心配で、家にいられませんでした。あんな影を見せられて……寝ろって言われても無理です」 祐真は眉をひそめた。 しかし彼女の震える指先を見て、強く拒むこともできなかった。 「春香さんは?」 「私が出てきた時、眠っていました。でも……あれは眠りじゃなくて、気を失ってたのかもしれません」 美奈の声は細く、怯えが滲んでいる。 「……わかった。だが、絶対に俺のそばを離れるな。何があっても」 美奈はうなずき、二人で暗い山道を進み始めた。 目的地は、紅葉の髪飾りが見つかったあの古い祠の裏手。 昼間、落ち葉に埋もれていたはずの地面が──祐真の光に照らされ、露骨に盛り上がっている。 「……やっぱりな」 「掘り返されてますよね、これ……誰かが、最近」 「昨日の捜索では、こんな跡はなかった。つまり──」 祐真がその続きを言い切る前に、
夜の帳がすっかり降りた。 氷川美奈は、薄暗い春香の家の居間でカップを両手に抱きしめていた。窓の外は強い風。風鈴がカラン、と鳴るたびに胸の奥がざわつく。 「紅葉が、見つかったって……本当なんですか?」 掠れた声で問うと、祐真が頷いた。制服の襟元をゆるめ、疲れの色を隠しきれない顔をしている。 「ああ。ただし──見つかったのは“紅葉のものと思われる遺留品”だ。本人は、まだ」 春香がテーブルの端に視線を落とす。彼女の指先は小刻みに震えていた。 机の上には、あの小さな“鈴のついた赤いリボン”が置かれている。 紅葉が失踪する数日前、髪を結ぶのに使っていたものだ。 「これが……あの子の?」 「間違いないと思います。DNA鑑定に回す予定ですが、土の中に埋められていた。おそらくは……」 祐真の言葉がそこで途切れた。 “おそらく”の先を、誰も聞きたくなかった。 静寂が落ちる。 時計の針の音が、妙に大きく響く。 春香の頬を一筋の涙が伝い落ちた。 「……二十年前も、こんな夜だったわ。美桜がいなくなった時も。風が強くて……鈴の音が止まなかった」 春香の声は遠い記憶の底を彷徨うようだった。 美奈はその言葉に、ぞくりと背筋を走る感覚を覚える。 二十年前の美桜の失踪──そして、今また紅葉が消えた。 同じ時期、同じ風、同じ鈴の音。 「春香さん」
夜が明けきらぬうちに、村の霧がゆっくりと流れ込んでいた。 橘春香は、冷たい井戸水で震える手を洗いながら、昨夜の“赤い鈴”を思い出していた。 あの小さな音はまだ耳の奥に残っている。チリ……ン。 ひとつではなく、ふたつ──。 美奈は玄関先の縁側に腰を下ろしていた。 毛布を肩にかけ、蒼白な顔で祐真の言葉を待っている。 祐真は駐在所から持ち帰った記録ファイルを広げ、ランタンの灯りの下でページをめくった。 「……やっぱり、二十年前の“神隠し”事件の記録、曖昧すぎますね」 彼は低く呟く。 「橘美桜の行方不明──公式には“事故の可能性が高い”とあるけど、現場検証の記録も写真もない。 ……まるで、誰かが意図的に消したみたいだ」 春香の指が、ぎゅっと膝の上で組まれた。 「消されたのよ。美桜の記録も、真実も。村の“掟”に逆らったから……」 「掟?」 祐真が顔を上げる。 春香はしばらく黙り込み、それからぽつりと語りはじめた。 「──この村には、昔から“秋祭りの夜には、森へ一人で行ってはならぬ”という言い伝えがあるの。 でも、守らなかった者がいたのよ。二十年前、あの夜、美桜と……もう一人、女の子が森に入ったの」 「もう一人?」 美奈が顔を上げた。 春香の唇が震える。 「古沢住職の娘、玲奈ちゃんよ。二人で森に花を摘みに行って、そのまま──」 その名を聞いて、祐真の目が一瞬
森の中は、夜の帳が完全に落ちていた。 葉の隙間からこぼれる月明かりが、まるで血のように赤く滲んでいる。 氷川美奈は、スマホのライトを頼りに細い獣道を進んでいた。 春香と祐真が地下から戻らないことが気がかりで、ひとりで探しに来たのだ。 けれど、歩くほどに空気が変わる。──重く、湿って、息苦しい。 足元の落ち葉が踏みしめるたびに、奇妙な“ずれた音”が返ってきた。 まるで地面の下に、別の何かが息づいているようだった。 「くれは……?」 小さく名前を呼ぶ。 その瞬間、森の奥から“カラ……ン”と鈴の音が返ってきた。 ──遠く、しかし確かに、紅葉の髪飾りの音だ。 美奈は息を呑んで走り出した。 木々の合間を抜けると、小さな空き地が広がっていた。 そこに、黒く焦げたような地面がある。 かつて、秋祭りの夜に火が焚かれた場所──。 あの夜、紅葉が姿を消したのも、ここだった。 足を止めると、焦げ跡の中央に、白い布の切れ端が落ちているのが見えた。 拾い上げると、それは紅葉の制服の袖口の一部だった。 だが、その端には茶色く乾いた泥と、赤黒い染みが混ざっている。 美奈の喉がきゅっと鳴った。 と、その時、足元から“かさり”と音がした。 「……え?」 地面の一部が、わずかに動いた。 土が呼吸しているように、ゆっくりと盛り上がり、沈む。
鈴の音は、確かに祠の外から聞こえた。 けれど、その音が近づくにつれ、空気が妙にひんやりとしていく。 まるで、地下全体が息をひそめて彼らを見つめているようだった。 「……春香さん、ここにいてください。僕が見てきます」 祐真が低く言う。 懐中電灯を構え、祠の方へ一歩踏み出した──その瞬間、また“コトリ”と背後で音がした。 「……今、聞こえました?」 春香が小さくうなずく。 灯りを当てると、通路の奥に細い階段が見えた。 下へと続いている。 躊躇いながらも、祐真は降りていった。 春香も後に続く。 階段の先は、まるで小さな部屋のような空間だった。 そこには古びた木の机と、壊れかけた椅子、そして壁一面に貼られた紙があった。 子どもの手で描かれた絵。 森、鳥、月、そして女の子の笑顔。 だが、それらの絵の隅に、赤黒いインクで上書きされている。 ──「かえして」 ──「おねえちゃんはどこ?」 ──「また まつりがくる」 春香は息を呑んだ。 その筆跡は、美桜のものに似ていた。 机の上には、小さな木箱が置かれている。 蓋を開けると、中には乾いた花びらと、赤い鈴のついた髪飾り。 それは、紅葉が失踪した夜、確かに身につけていたものだった。
森の中は、朝の光が届かないほど静まり返っていた。 濡れた落ち葉が靴底に張り付き、踏みしめるたびにしっとりとした音を立てる。 春香と祐真は、懐中電灯を頼りに祠のある小道を進んでいた。 風はなく、森の奥へ進むにつれて空気が重くなる。 まるで、何かに見張られているような——そんな息苦しさだった。 「……この辺りです。昨夜、誰かがいたのは」 祐真が小声で言う。 彼の手には、古びた鍵が握られていた。祠の近くで見つけたものだ。 それは錆びついているのに、最近まで使われていたような感触があった。 やがて、二人は祠の前にたどり着いた。 木造の鳥居は傾き、注連縄は腐りかけている。だが、そこだけ空気が異様に冷たい。 「ここ……美桜とよく来た場所です」 春香の声は震えていた。 手を合わせようとした瞬間、祠の裏手から“かすかな物音”がした。 「──誰かいるの?」 春香が呼びかけると、返事はない。 ただ、風に揺れる木々の音だけが返ってきた。 祐真が慎重に回り込む。 祠の裏には、苔むした石壁があった。 だが、よく見るとその一部が崩れ、土の下から古びた扉の縁が覗いていた。 「春香さん、見てください。……隠し扉です」 祐真は枝で土をどかしながら、錆びた取っ手を露出させた。 鍵穴があり、手にしていた古鍵がぴたりと合う。